吾妻伝甲陽流兵法

流祖を山本勘助晴幸とし、武田信玄公机下の諸将の合議の上、出發頭(スッパ頭)多田治部左衛門、高田郷左衛門、原隼人らに託された伊賀・甲賀の兵法を、甲斐武田家の軍法に組み込んだもの。
私は、祖母や先代法印より「コウヨウノヘイホウ」「コウヨウノギョリュウ」と聞かされ、戦国時代末期は真田家がその本宗を継承したと承った。

江戸時代には真田伝以外の系流は、徳川家康が武田家三代の兵法を敬慕したとされることから、各藩にて甲州流兵法が講ぜられ、それに伴い兵法伝授が盛んに行われた。それに依って興隆はしたが、その内容は、武士の教養・嗜みの意味合いが強くなった。
吾妻に残存した甲陽流は一部松代伝とその系譜を一にするが、江戸初期の沼田藩真田氏の改易を期に、民間、特に吾妻地方の郷士や四阿屋山の修験者達の下に残存して命脈を保った。
なかでも割田、唐沢、禰津、黒岩、横谷、田村、伊与久等の旧家には兵法書と共に近年まで忍術が伝わったが、第二次世界大戦を一期としてその殆どは途絶えたようである。
以後は親代わりだった祖母より、幼少時から筆者に施された独特の教育を紹介することで、この流れへの参考に供したいと思う。

5歳前後より日常の立ち居振舞いから礼儀作法、遊びと称しては頭の上や肩に、お手玉や湯呑みを載せて落とさないようにして、棒や剣を振ったり、舞いを習ったり、樹に登らされた。色々な姿勢で石を投げたり、転んだそばから身体を捻って起き上がったり、水の中で息を止めたりさせられた。生来身体の弱かった私だったが、この祖母との日々によって健康状態は随分向上した。
少年期になると楽しかった遊びは、徐々に稽古の様相を帯び、厳しさを伴ってきた。棒状の手裏剣を撃つ、竹林に入って跳び切りの訓練、含み針、また各種武器の取り扱い、制作、柔術の技で好きなように投げ捨てられ、縄術で縛り上げられ、畳の上だけでなく、斜面や石畳など、自然環境の中でも受身をとれるようになった。
また、たんぽの付いた弓で狙い撃ちにされるのを、棒や小太刀で受け落とす所謂「矢留」の稽古は嫌で、怖くて逃げ回っていたのを覚えている。

14歳位から、群馬県の吾妻地方から祖母を訪ねて来る修験者「黒岩永青(如雪)法印」(甲吾法眼とも号する)に帯同され、学校の休みの度に「さわたり」という訓練を兼ねた巡拝行で、各地の修験道場や行場を遍歴。
動物に成りきったり、素っ裸で山を歩いたり、瀧に打たれ、洞窟に籠り、時に断食も伴った。この修行は学生時代を通じて継続したが、師匠も非常に厳格な恐ろしい感じの人で、行中は無言、秘密厳守だったので、その内容は祖母以外の家族は知ることもできなかった。
こういった修行は、自然に生活の一部となっていたので「あれ、何かおかしいぞ?」と客観視するまでには相当歳月を要した。私としては小学3年生になった頃に初めて、武道をやらない家庭が有るのだと知って羨ましく思ったことがある。
そのように呑気だったので、自分がやっているのが一体何の意味があるのか中学生になるくらいまで余り疑念もなく、素直にやれば老人達も機嫌が良いので、只諾々と従っていた。

また、一族とその歴史に関する独特の内容を口伝えで学ばされた。メモなどは極力取らせず、何度も繰り返し同じ話を聞かされて記憶する。武田信玄公は「御館様」。真田配下我ら吾妻の地侍たちが、陰に日にその命脈を護ったのだとか。後日学校で歴史を学ぶに付け、自家の言い伝えとの差が大きく感じられて目眩がするような困難を覚えた。
幼少の頃は多分に漏れず、私もテレビや漫画などで忍者ものに憧れ、折り紙で手裏剣を作っては遊んだりして居たが、いつもは優しくて楽しいはずの祖母が、そう言った番組が始まると急に厳しい口調になり「こんな物は見るんじゃない」と消してしまうのには戸惑った。
しかし日頃行っている訓練や、心得が如何にもテレビの忍者像と重なるので、何度か「おばあちゃんは本当は忍者なんじゃないの?」と聞いてみたことがあり、すると「うちは歴とした侍、真田さまの郷士で甲陽ヘイホウの末裔だぞ! こんなこそ泥みてえなのとは違うんだ。だいたいあんな目立つ格好するわけねえ。侍はコソコソしていちゃならねえ。堂々と門から入るもんだ。それに手裏剣だってあんな変なもんじゃねえだろうがよう。こう言ったテレビは嘘ばっかりだから兄ちゃんは見ねえに越したことはねえ」 と、とりつくしまもないので、私は良く解らないまま「ニンジャ」という概念自体を封印、または保留してきた経緯がある。

しかし同居している訳なので、長い年月の間にはそれなりに理解も進んできて、祖母や法印さんが語ったことを要約すると大体以下のような概要が理解できるようになった。

  • これらは、かの戦国武将·武田信玄公を流祖と仰ぐ「甲陽兵法」の修行であり、それを受け継いだ真田氏の下、実動部隊として潜入、攪乱、諜報等を善くしたのが私たち伊与久氏をはじめとした吾妻の地侍集団だったということ。
  • 代々の甲吾法眼はそう言った「筋」の家々の、これと言った人物を教育し、その繋ぎと取り纏めをしていたこと。
  • 法印は黒岩姓。伊与久家とは外戚の間であること。
  • この組織を「みつ(の)もの」「みつのしゅう」と呼び、「密者」「密衆」の字を充てること。
  • 最初期、この組織の長は真田信尹公であったこと。
  • 武田信玄公、勝頼公を神仏と同様に敬い「御館様」と尊称してきたこと。
  • 源義経公や楠木正成公、山本勘助公、真田一族についても非常な尊崇の念を抱いていたこと。
  • 男女問わず文武に通暁し、特に男性は修験道や兵法、女性は舞をはじめ諸芸諸能を善く修めること。
  • この集団が後世、真田に忍者ありという伝説の基となったこと。
  • この集団は、所謂「武田家再興」や「真田家存続」の為に長期にわたり地下工作を行ってきたらしいこと。
  • 紀州藩出身の八代徳川吉宗公の折りに公儀と合流したこと。
  • その後も人的、技術的連帯は継続し、先般の大戦に於いても先代法印ら数名が特務を帯び戦線に投入されたこと。

このような一種独特な環境に育ったので、世間の子供がニンジャごっこをしいていても、奥歯にものが挟まったような感じで居ざるを得ず、時に肩身の狭い思いをした。

後年祖母が亡くなる前に帰省した時に、詳細を聞くことができ、更に

  • これが伊賀甲賀の忍び、特に甲賀の伝承より出たものであるということ。(「伊甲に始まり甲陽で大成し真田が用いた」との口伝あり。)
  • その諜報網は、武田信虎公の砌に形成されたこと。
  • 武田家が召し抱えた甲賀衆は諏訪外戚の滋野家と情報共有しており、真田氏はその棟梁として情報線の根本を司っていたこと。
  • 自分(祖母)と法印が恐らく最後の伝承者かもしれないということ。
  • 先代法印は若年の砌より失われつつあった吾妻の密衆の伝承に危機を感じ、諸家を廻って伝承を結集したこと。
  • 先の大戦の影響等から、それら伝来の文物の大半が失われてしまったこと。
  • 世間の忍者忍術の概念とは大幅に異なり、また現行の団体や人物に迷惑がかかるので、他言は無用であること。
  • 万一同系の者がいた場合は、仁義を通し、虚心になって教えを乞うべきこと。(このご縁で現在、割田喜一郎師範、守屋順心斎師範、川上仁一宗家に教えを賜っている。)
  • 戦の法(兵法)である以上に平和の法(平法)として子々孫々に継承してもらいたい旨。

などの知見を得、一部伝来の文物を委託された。

そして更に、最後の数年間、黒岩法印と時を共にして

  • 義経公百歌…(伊与久家の太祖、弾正五代の祖·畠山重忠公が仕えた源義経公の口述したと言う兵法の要旨を百首の和歌のかたちで伝えたもの。)
  • 金剛杖術…(回杖術·条里の杖とも言い、吾妻の修験者が持ち歩き、武器や法器、敵地の広さを測る機器としても使われた。長柄鎌や薙刀の基本操法にも通ずる。)=諏訪神流武術万徳之伝
  • 馬場流小具足組撃之術…(馬場美濃守信房公を開祖とする甲冑組撃を基本とした武術。秘武器の伝も含む。)
  • 転座抜跳之術…(礼法や刀法の基本を習得するための体術)
  • 薬法…(薬餌之大事。兵糧丸、赤薬、陣中丸などの秘薬製造法。火薬·毒薬も含む。)
  • 仕物之伝…(コロシモノと読む。隠し武器の製作、使用、隠匿などについて。)
  • 望気之術…(武田信玄公が得意とされた、主に敵陣の気勢を察知する方法。)
  • 両部之大法…(密法。四阿山系の行者が尊崇しいていた白山大権現を主祭神とした神仏集合の信仰と修行の体系。馬頭観世音、摩利支尊天、不動明王、大黒天、弁財天、竜王、役行者などを祀り、断食、瀧行、無言、読経三昧、裸身行、不眠、などの苦行と禅那などの安楽門がある。)
  • 甲陽理当之巻…(孫子の兵法を下敷きに、武田信玄公ー山本道鬼入道が大成した日本兵法の肝要の理を、特に用兵や築城の立場から説く。)

等の技術、文物を一部相伝され、今に至る。

途中、私個人の問題や祖母や法印の体調等から伝習が中断される時期もあり、学び残したことや、聞きただしておかなかった事などが多々あり、今になれば大変価値の有るもので、もっときちんと学んでおけば良かったと自責の念が込み上げてくる。
2010年、暫く関係を断っていた法印が亡くなったことを聞き、間もなく私自身も一子を授かり、其まで秘匿してきた物事を整理して、一体自分が関わってきたことは何なのか、その真偽を質すべき必要を感じた。
ちょうどその前後に、大河ドラマ真田丸に於て、恐らく初めて公共の放送に私共の家系と縁の深い真田家臣、出浦対馬守昌相公が忍者の棟梁として紹介され、吾妻等の旧真田領の土地に歴史再考の機運が高まり、また三重大学の忍者研究に相まって、史実に則した忍者ブームが到来し、各地で地方独自の忍者文化を検証しようという動きが起こってきた。
一昔前までは、サブカルチャー的興味の対象でしかなかったニンジャが、なぜかこの時代にクローズアップされている。私はここ数年の変化を不思議に思いながらも、これを最初で最後のチャンスと捉え「真田忍者研究会」を発足した。

吾妻地方に残存した独特の忍者文化、甲陽流兵法とその心を、これからの時代性に合った形で存続させていきたいと願っている。